受付嬢の憂鬱
またか、と坂上詩織は嫌な気分に陥った。もっともその感情を顔に出すような子ども染みた振る舞いをするわけにはいかない。何故ならば詩織はこの★★★★本社において、企業の顔であるとも例えられる受付嬢なのだから。詩織は気持ちを引き締めて来客の対応に備える。───その男性は少し迷ったそぶりを見せてから受付の方へと歩いて来た。コツコツと靴音を響かせながら───。
受付嬢…ですか?殊の外きょとんとした表情を浮かべた部下に思わず苦笑してしまう。「そう、受付嬢。うちじゃ男性のreceptionistも居るよね。」昨今では受付窓口に男性を起用する事も珍しくはないが、昔のオフィスビルでは妙齢の女性が来訪者の応対をする事が当然のように思われていたのだ。「そう言えば昔のドラマの再放送かなにかで見たような…」「まぁ、時代だよね。」その受付嬢について噂があってね、と世間話の一環のように話を続ける。どうぞ、と湯気が立ちのぼる珈琲をすすめる彼の優雅で滑らかな所作にガサツな部下は気負うことなく頂戴する。「あざっ…、有り難うございます。」年嵩であり上役でもある彼が、まだ若く溌剌とした部下に向ける視線には親が子に向けるような暖かな優しさが滲んでいた。
今日もまた…。詩織は来客の多さに辟易していた。普通の客人であれば問題なく対応できるのだが、あいにく近頃は不審なお客人が相当数を占めており詩織の頭を悩ませていた。先日などは下駄を履いた珍妙な格好の老爺が数珠を振り乱し、エントランスを喚きながら闊歩する珍事が起きたりもしたのだ。早々にお引き取り願えば翌日には警官隊が押し掛けてきたりして、さすがにお帰り願うのにも骨が折れてしまった。
「こんばんは坂上さん。」今宵の来訪者は詩織の名を呼び、まっすぐにその瞳を見つめてきた。「あっ…」詩織の胸がドクンッと高鳴った。名前を呼ばれたのは…何年…ぶりだろうか。キチンと身なりを整えたそのお客人は洗練された仕草で名刺を差し出した。そこに書かれていたのは★★★★ホールディングス───この会社の名前だった───「あなたは…。」
これが最後の書類になります。来訪者は□□と名乗り、手慣れた様子で紙面を捲った。詩織は項垂れたままの姿勢でノロノロと書類に記名するほかになかった。それにしてもまさか自分が既に死んでいたとは…。まさに青天の霹靂だった。霞がかった記憶を必死に手繰り寄せると出勤途中のアクシデントと、その後の環境の不自然さに困惑したことを僅かに思い出した───なのに何故か我が身の状態には思い至らず、毎日普通に業務をこなしていたのだった。毎日、毎日。30年以上も…。「以上で退職手続きが完了となります。坂上さん、本当に長い間お疲れさまでございました。」詩織の眼から雫がポツポツとこぼれ落ちていく。「本当に…申し訳ありませんでした…。こんな、大変なご迷惑をかけていたなんてッ。知らなかったとは言え…うううッ…。」本社もとっくの昔に都内へ移転していたなんて─────。「あのッ!!この間の警察の方達は!?お爺さんは!?ご無事なんですよね!?私、変な力で思いっきり吹き飛ばしちゃって!!!」混乱気味の詩織に、□□は力強い笑顔で頷いた。「勿論ですよ、ちょっと骨が折れただけですから安心してください。」
荒れ果てたエントランスホールを名残惜しそうに見渡している詩織に、そっと封筒を手渡す。「○○取締役からの餞別です。どうぞお受け取りください。」中には新幹線のチケットが封入されていて、懐かしい…詩織の故郷の地名が記されていた。「御両親はご健在だとうかがっております。お会いになりたいだろうと僭越ながらご用意させて頂きました。」「…。」「あなたがその気になればフワーッと空も飛べるはずだと取締役には教えたのですが、そういう問題ではないと叱られまして。」「ふふ。ご配慮いただきまして有り難うございます。○○さんにもよろしくお伝えください。」そう言って一礼した詩織は、振り返ることなく長年勤めた会社から去っていった。そしてその華奢な背中には包丁のようなものが深々と突き刺さっていたのだった。
「ご苦労だったね。」○○取締役の執務室はいつものように芳しい珈琲の薫りで満たされていた。彼が今の今まで読み込んでいた古い新聞には、坂上詩織が死亡に至った通り魔事件の詳細が書かれている。「坂上さん、新幹線に乗るのが楽しみだと喜んでいましたよ。」と快活に報告する部下に珈琲をすすめながら、それは良かったと笑顔で返す。本当に良かった…。しかしコレ、なんとかなりませんかね?と部下が自分の名刺を取り出して指し示してみせる。「気に入らないかい?」「特務係…っていうのはいくらなんでも…」「じゃ、とくめ…」「それ以上はいけません!!」「駄目なのかい??」真面目な顔で首を振る部下を見つめながら○○は考えていた。死者とコンタクトを取ることができる───それはなんと稀有な能力なのだろうか。羨ましいと言えば浅薄に過ぎるとわかってはいても…心のどこかで欲してしまう己の浅ましさに苦悩する。「…大変だね君も。そんな力を持っていると苦労する事ばかりだろう。」「いえいえまったく!!この力があるからこそ取締役とのご縁に繋がったわけですし、来月にはボーナスが支給されるわけですので!!!」お気遣いなくとハッキリ言い切った、出会った当時と変わることのない部下の底抜けの明朗さに今度ばかりはたまらず吹き出してしまうのだった。
陽気な人の明るさは周囲の人にも伝染するから。逆もまたしかり。
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