帰って来たアンビュランス
深みにはまって溺れるように沈下していく意識の端で、誰かが私を呼んでいる声が聞こえた。やめて!そんな大声で叫ばないでちょうだい…!!
くぐもった轟音が朦朧とする頭の中をぐちゃぐちゃに壊してゆくというのに、悲鳴をあげることも身動きをすることも出来ないなんて───…あまりの歯痒さに恐ろしさを通り越して怒りの感情が脳天を突き抜けていく。そんな理不尽は絶対に許さない!私を誰だと思ってるの!!
このまま冷たくて暗い水底に引きずり込まれて朽ちるのかと益体もない想像に心身が支配されそうになった刹那、脳裏に浮かび上がったのは死んだ夫でも疎遠になった子どもや孫達でもなく大親友の顔だった。子ども達がまだ幼い時分に知り合った、現代で言うところのママ友であった“後藤のサッちゃん”の事を思い出したのと同時に私は読んで字のごとく覚醒していた。
あら嫌だ!サッちゃんとスーパー歌舞伎を観に行く約束してたんだったわ~
瞼を開けた私が最初に知覚したのは暗闇と静寂だった。顔に被さっている鬱陶しい布切れを払い落として体を起こせば、そこは一見すると病室のようにも見えるが正確には違う場所だ。辺りを見渡して線香が焚かれた枕飾りが視界に入った瞬間に私の怒りのボルテージは最高速度で急上昇してゆき、たわいもなくプツンと限界を突破してしまうのだった。
「ほんま災難じゃったわ~」
「でもナミちゃんの日頃の行いが良いけぇ、無事に帰ってこれたんよ。」
大親友のサッちゃんがニコニコと笑顔で労ってくれると、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた私もつられて笑顔になった。いつも穏やかな性格のサッちゃんと、正反対に激情家である私はなぜか奇跡のようにウマが合っていた。実際、今回の騒動で生死誤認されて憤り暴れ狂う私を落ち着かせてくれたのもサッちゃんだったのだ。激怒のあまり霊安室を破壊したり、駆けつけてきた看護師達を痛罵したり、徒党を組んで押さえ付けようとしてきたヤブ医者どもを相手に大立回している最中にサッちゃんが到着したのはその場にいる全員にとって僥倖だったのは間違いないだろう。警察沙汰になってもおかしくないところを慰謝料の名目で少なくない金額をぶん取った抜け目の無さは流石の手腕であるとも言えた。もっとも、楽しみにしていたスーパー歌舞伎の観覧を台無しにされた怒りは未だに燻っていたのだが。
「なんね!?」自宅に帰りついたサッちゃんと私の前には異様な光景が広がっていた。狭い道を挟んだすぐ向かいの集合住宅の前に救急車が停まっている。それも一台ではなく、なんと五台もの救急車が犇めくように道路を塞いでいたのだ。
「ナミちゃん!あんた死んだんじゃなかね!?」ご近所さんが驚いた声をあげる。
「アホ言いなさんな。それよりなんね?この騒ぎは。」
「よぉわからんのよ。そこのアパートに住んどる人らが次々と運ばれていっとるみたいなんやけど。」
「ガス漏れやなかろうね?…臭いはせぇへんな。」
「嫌やわほんま~。近頃おかしなことばっかり起きよるし、世の中どうなっとるんよ。」
姦しく囀ずりあう私達を尻目に患者と救急隊員を乗せた救急車が次々に発進していく。単身者向けであるこのアパートの部屋数は十二、すべての居室から住人を運び出したということは救急車が十二台出動したという計算になる。そんな馬鹿なことは普通あり得ないのだけど、いつの間にやら話題が逸れてスーパー歌舞伎について熱く語り合っていた私達は毛ほどの興味も引かれないのだった。
───…その後、アパートの住人は誰一人として帰らなかったと小耳に挟んだが、私にはまったくと言って良いほど関係のない話だった。来週にはサッちゃん達とスーパー歌舞伎を観に行く約束もしてあれば、清掃のアルバイトに復帰する予定もある。呑気に死んでる暇なんて私にはこれっぽっちも無いのだから。
『怒りを原動力にする』は『奮起する』とも言い換えれる。自分で自分を奮い立たせるのは才能かも。
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