明け方の叫び声
これは入院中に本当にあった出来事だ。ある日の早朝、病室のドアを開け閉めする気配で私はふと目を覚ました。もうそんな時間なのかと半分寝惚けたまま瞬く。この病棟では毎朝4時30分に看護師の交代が行われるのだと短くない入院生活のうちに知っていた。眠る前と目覚めた後で担当の看護師が変わっていて、最初の頃はキョトンとしたものだ。…実に大変な仕事なのだと頭が下がる。
静かに足音を忍ばせながら医療用カートを曳き、患者のベッドのカーテンをほんの少しだけ開いてテーブルの上に置かれている記録用紙を覗きこんでいる。患者自身が記入した1日分の摂取した水分と出した水分の記録をチェックしているのだろう。循環器科では己の尿量を日々計測するのだが、まぁ…あくまでも自己申告が基本で正確性には疑問があった。記録させることで患者自身の健康への意識を高めようとする意義があったのかもしれない。
私のベッドへとまわって来たので目を閉じて寝たふりをする。そのほうが彼女の作業が捗るだろうという小さな親切のつもりで特に深い理由はない。年寄りは眠りが浅いものなので多くの入院患者がそうしているに違いないだろう。もっとも、おしゃべり好きな窓側のベッドのオバちゃんに捕まった日には憚らない大きな話し声に皆が皆早々に起きる羽目になるのだろうが…幸いなことに最近は早寝・遅起きだった。
ゴロゴロとカートを曳いて退室した彼女の後ろについて私も病室を出る。彼女の事は気に入っているし、彼女が新人だった頃から知っている。おっかなびっくり点滴の針を挿していた彼女が、今では立派なベテラン看護師として務めを果たしている。…自分の娘のように思えてなんとも誇らしかった…。彼女の後ろをついて歩きながら遥か昔のことを思い出していると、常夜灯のみの暗いフロア内で懐かしい面々に出会った。ナースステーションの向こう側にあるエレベーターの近くに自動販売機とソファーが設置してあって狭いながらも休憩スペースが設えてあり、そこから手招きしているのは顔馴染みの先輩達だった。お早いですねと笑いながら言うと、昼も夜もないからなと笑い返してくる。実際に入院するとよく分かるが食事の時間が時計がわりになり、次の食事までが自由時間となる不思議なサイクルに感覚が麻痺してしまう。それも長年ともなると顕著だった。久方ぶりに知己に会って談笑していると時間が経つのも速いもので、いつの間にか窓の外は薄く明け方の様相をあらわしていた。季節は冬、まだまだ日が昇るのは遅い。ふと、焦げたようなにおいがしてそちらの方を振り向く。エレベーターの奥のもっと先に従業員用の通路があり、そのまた先の扉の向こうに従業員専用の階段がある。暇に明かせて探検したことがあるので病棟内には詳しいのだ。その扉の向こう側からにおいがする気がした。…火事なのか?先輩達の方に振り向くと彼らは黙ってうなずいた…それだけで十分だった。
ギャーーーーー!!ギャーーーーー!!!
明け方の病棟内に金切り声が響き渡る。私は必死にオバちゃんに訴えた。寝ているところを申し訳ないと詫びながら、あっちで煙が出ているようだから確かめに行ってはくれないかと懇切丁寧にお願いした。肩を揺さぶることが出来ないので仕方なくベッドのそばで飛んだり跳ねたり地団駄を踏んで自分の存在を知らせるしかなかったのだ。物音が伝わらないのは不便でしょうがない。幸いなことにオバちゃんには霊感とやらがあるらしく、私達の姿をぼんやりと見ることが可能なようで何週間か前にうっかりチャンネルが合って遭遇した時も今回と同じく喚声をあげて病棟内を震わしたのだった。
いやあーーーーー!!お化けーーーーー!!!
駆けつけてきた看護師達には叫ぶオバちゃんしか見えないのだが、そこは先輩達が苦心して煙る現場へと誘導するのが決められた役割だった。気が遠くなるような年月の末に会得した「掲示板のマグネット飛ばし」(物体に触れるのは凄いことなんですよ❗)を駆使して
こっちだぞーーーーー!!
と、オバちゃんに負けじと声を張り上げている。残念ながら声は届かないので、もう1人の先輩が自販機の横の缶入れを蹴っ飛ばすナイスプレイで彼らの注意を引き付けることに成功した。あの辺りまで行けば煙のにおいに気が付くはずだ。
ギャーアーーー!!なんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶ、ギャーーーーー!!!
オバちゃんありがとう!!そう言って自分も現場へと向かうと、消火器を使用したと見受けられて辺り一面に白煙がけぶっていた。遠巻きに消火活動を見守っていた先輩達がお疲れさんと労ってくれたので、先輩達の妙技のおかげだと誉めそやしておだてておいた。缶入れを蹴り飛ばすなんて5年や10年じゃ身に付かない。幽霊にも格というものがあるのだ。野次馬の中に心配そうな顔をしたお気に入りの看護師を見つけて、ほっと安堵する。彼女には本当に世話になったのだ。まだ新人だった彼女に看取られて私はこちらに旅立った。家族のいない孤独な私の最期を彼女は泣いて悲しんでくれて、それは死にゆく私への餞となった。…まだ彼女のことを見ていたい…。他人が聞いたら地縛霊か悪霊のように思われるんだろうが、正直な気持ちなのだから仕方がない。私が成仏するにはまだまだ時間がかかるだろう。その証拠に私よりも何十年も昔に旅立ったはずの先輩達がこの病院には少なからずいるのだから。苦笑しながら私は病室へ戻り、私のベッドに潜り込む。今朝8時過ぎには新しい入院患者が使うことになっているので、次の空きベッドを探さないといけない。それまではひと眠りできるだろう。窓辺のオバちゃんも同室患者に窘められたのか、すでに叫ぶことをやめて小さく念仏を唱え続けていた。
退院する気なんてねえから。これっぽっちも。
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