孵卵 (ふらん)
もうすぐ産まれる─────。わずかに透けた卵殻にはモゾモゾと蠢く雛の影が映しだされていた。無造作に置かれた発泡スチロールの箱のそばに屈み込んでいた野良着姿の小柄な人物が満足げににんまりと笑んだが、その相貌はとても正気のものとは思えなかった。
「あら~、あらあらまあまあ。こんなにたくさん頂いちゃってぇ。本当にいいの~?」言葉では遠慮しながらも両手はガッチリと野菜かごを掴んでいた。かごの中には収穫したての新鮮な野菜がこれでもかと詰め込まれている。「んまー、なんて立派なズッキーニちゃん!!」好物の野菜を見つけて喜色満面の笑みを浮かべた女性に、二周りは歳上であろう老女がニコニコ顔で答える。「今年は仰山出来ちゃってねぇ。裕子さん、それ好きだって言っとったじゃろ?」そう言って山辺の婆ちゃんはこれも食べんさいと卵を盛ったザルを野菜の上にのっけた。人の良さそうな農家のお婆ちゃんを絵に描いたような出で立ちの山辺さんは独り暮らしで、自分が育てた自慢の野菜をおすそわけだと大量に担いで訪ねてくる親切なご近所さんだった。
少なくとも世間にそう思わせようとするだけの知恵があるというのが非常に厄介なのだ。
「ね、これどう思う?」裕子が示したのは老婆にもらった野菜の山だ。スーツを脱いで着替えようとしていた裕子の夫は興味なさげにそちらを見やった。「大丈夫だよ。ただの野菜だ。」おかしなところなんて何も無い。夫の一言に安心した裕子はもうひとつの山をキッチンから持ってくる。「じゃ、これは?」ザルいっぱいに盛られた卵を夫に指し示す。すると夫は盛大なため息ともに唸り声を絞り出した。
「またかよ、あの婆さん。なんつーとんでもないモン作ってんだ…。」
なんの変哲もない卵にしか見えないそれは、悪しき呪いが籠められた呪物に他ならなかった。御丁寧に幾重にも重ね掛けされた呪いはもはや【魔法】と遜色無いレベルにまで達していると推測される。かの老婆は既に魔女と呼ぶのにふさわしい存在なのだと常々警戒するように促していたのだが、頭でっかちな村の連中にはとんと伝わらないのだった。所詮は田舎の魔女だと軽んじているのが丸わかりだ。…実に愚かな連中だ。
「ね、どうする?」裕子が尋ねる。利発で聡明な彼女は俺の意見を決して蔑ろにしたりはしない。自分には見ることの出来ないモノを見ることが出来るという伴侶のアドバンテージを無下にする愚かさは持ち合わせていないのだ。さすがは俺の女房だ。妙に誇らしい気持ちが湧いてきたのだが、とりあえずそれは横に置いておくとして俺は問題の解決策を簡潔に述べた。「引っ越そう。」
中世において盛んに行われたとされる魔女狩りには不可解な記録が数多く残されていた。曰く、魔女裁判にかけられた者が生きて帰ることは決して無いのだと…。そして魔女として告発された者は死ぬことでしか身の潔白を証明する事が叶わないのだとも…。後世において識者が呈したありきたりな疑問「もしも本当に本物の魔女ならばそんなに簡単に囚われたりするものだろうか…」これに対する解答がきっと、コレなんだろうと思い至った。
村はあっさりと消滅した。表向きには天変地異による土砂災害が起きたのだと報道されたが、運良く村から脱出した俺達にとって真相は闇に葬り去るべしと言うのが暗黙の了解だった。村は魔女が孵したナニカによって住民ごと破壊の限りを尽くされてしまったのだ。そしてそれは当然の報いだと山辺ハナは高らかに嗤うことだろう。山辺家はハナの両親が生きていた頃からずっと村八分にされてきており、ハナにとっては積もりに積もった積年の怨みを吐き出しただけにすぎないのだから。─────だから村人達の死亡確認が進むなか、ハナが行方不明になっていると聞いても驚くことはなかった。田舎の魔女などと不名誉な嘲りをその身に受け続けた山辺ハナは「人」でいることを放棄したのだろうというのが俺達夫婦の推測だ。ハナと普通に交流していたおかげで見逃された村人は他にも数人居たが皆そろって口をつぐんでいる。当たり前だろう?お喋りで早死にするのは誰だって御免蒙るに決まっている。
俺達はあの村の連中みたいな馬鹿じゃないんだよ。魔女の逆鱗に触れるなんて愚の骨頂としか思えない。魔女をイタズラに刺激することがないよう女房には重々言い含めていた甲斐があったというものだ。俺の忠告を無視した馬鹿どもが無惨に屍を晒したというテレビのニュースを思い返して顔が自然ににやついてしまう。あんな馬鹿どもは死んで当然なんだよ───…
どこかの家の冷蔵庫にスーパーで買った何の変哲もないパック入りの卵がしまわれていた。卵の価格が上がり続ける昨今、特売セールともなると目の色を変えた人々が殺到するのが世の常だ。…だがそれは本当に鶏の卵なのだろうか?間違いなく魔女の悪戯が施されてはいないと確信が持てるのならば美味しく調理しても問題はないだろうが…「人」から醸し出される悪意をベルベットの毛布のように纏って誕生した「ナニカ」には注意を払わないといけない。彼らは煮ても焼いても食べられはしないのだから。─────よく見ていてごらん、もうすぐ産まれる。わずかに透けた卵殻にはモゾモゾと蠢く雛の影がくっきりと映しだされていて、その嘴がコツコツと殻をつついているのがわかるだろう。もしかしなくても田舎の魔女は誰一人見逃す気などなかったのかも知れなかった。─────そこからそんなに遠くはない場所で無造作に置かれた発泡スチロールの箱を覗き込んでいた野良着姿の小柄な人物が満足げににんまりと笑んだ。
産まれました
おめでとうございます元気なナニカです。
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