部長さんと中秋の名月
「やぁ、まだ残ってらしたんですか。」
思わず自分の腕に巻きつけた時計に眼を落とす。
「明日の会議までにコイツをまとめておかないとね。」
そう言って部長は分厚い書類の束を小突いてみせた。
そういうのは部下に任せれば良いのでは?と新人の頃はクチが滑ったりしたものだが、流石に守衛歴が40年も経とうとする今ではそんなミスは犯さない。
「遅くまでお疲れ様です。」
部長は疲れた顔で小さく笑った。
「ところで、そろそろ時間じゃないのかい?」
上の階を瞬きしながらクルンとした目線で示す。チャーミングな仕草につられて、ついつい軽口を返してしまった。
「最近の若い奴は時間に無頓着で敵わんですよ。かれこれ3時間はあのまんまで固まってます。」
「そう言いなさんな。若けりゃ若いほど考えにゃならんことも沢山あるんだろう。」
今度は心の底から笑いがクツクツと溢れた。
「仰るとおりですな!夢も希望も未来もない私らと一緒にしたら気の毒だ!!」
「おいおい、何度も説明したじゃないか。僕は事故だったって。」
忍び笑いが次第に大きくなっていく。
「満月が綺麗過ぎて見惚れてたら、ついウッカリ足を滑らしたんでしたよね?」
「そうそう。」
「屋上からね。」
「そうそう。いやぁ、本当に綺麗な月だったよ。手を思いっきり伸ばしたら掴めるような気がしてね。」
当時を思い起こしているのだろう、死相の浮かんだ顔に仄かに生気が宿る。
「君は心臓発作だったね。苦しかっただろう。」
「まぁそれからの久遠に比べたら一瞬ですよ。…女房も子供達もとっくに私より歳を食ってしまいました。」
そう笑い、若いままの顔を少しゆがめた。
ぱんッ
清みきった秋の夜空を震わす音が響き、二人は沈黙した。静寂が耳に突き刺さる─────。大きな水風船が割れたような音とは上手い喩えだと感心するほかになかった。
「やれやれ、新入りが起きたら一から教えてやらないといけませんね。」
「頼んだよ。」
運悪く途中階の庇部分に落ちて九死に一生を得た自分とは異なり、彼は彼岸に旅立ってしまった。正直なところ羨ましくもあるが、もう一度足を滑らせる勇気はなかった。
「心配しなくても大丈夫ですよ。部長さんには内緒にしてましたがね、この時間帯のこのビルは結構賑やかなんですよ。」
慰めるような彼の言葉に部長は温かい気持ちで満たされる。
「そうだね。こっちはとても賑やかだ。」
死線をさ迷った事故を契機にどちらの世界も垣間見ることが出来るようになった自分には、今居る世界の次に期待をかける人達の気持ちが痛いほどわかる。残念ながら思うようにならないのは現実と大差はなかったのだが…。
「ダメですよ。部長さんは此方に来ちゃ。」
「うん?」
「ダメですよ。」
「…うん。」
誰も居ないはずの深夜のオフィスビルにパタパタと足音が響き、二人は穏やかな笑みを浮かべて顔を見合わせた。お節介焼きの元営業課長が新入りを迎えに行ったのに間違いなかった。
出版社: KADOKAWA 出版社シリーズ: ISBN: 4041033753 (9784041033753) サイズ: 文庫 発売年月日: 2015年7月1日
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