部長さんと最愛の人
ネスレの粉末コーヒーを金色のスプーンで2杯掬いとる。シュガーは要らないと言ったら最初の頃は不思議そうな顔をして目を真ん丸にしたものだ。ケトルの湯を注いでかき混ぜたらソーサーに載せて捧げ持つようにソロリソロリと運んでくる。暫くぶりだったからか、トレーを使うことを忘れてしまったようだ。隣で妻が笑いを噛み殺しているのがわかる。「はい、パパはブラックコーヒーね。」「ありがとう美月。」「ママはお砂糖ふたつとミルクひとつね。」角砂糖とフレッシュミルクを足す。「ありがとう。上手にできたわね、美月。」美月が笑うと僕たちも笑顔にならずにいられない。
ここでニュースです。先日遺体で発見された男性の身元が判明しました。東京都●●区の●●●●●さん49歳。自身が社長を務める商社ビルの屋上から首を吊った状態で発見されました。遺体はビルとビルの僅かな隙間に吊り下げられており発見までに1~2週間程度経過していたとみられています。詳しい死因は解剖の結果を待っている状態ですが背中に刃物で刺された痕が多数あり、殺害されたのではないかと…
リビングのテレビを消した。「あなた…。」「君も会ったことがあるよね。うちの会長、いやあの頃は社長だったね。珈琲が好きで、僕の淹れた珈琲を美味しいと気に入ってくれて。」「コーヒーのおじいちゃん?」「…そう、小さい子供にはまだ早いって甘いケーキやクッキーを美月にも食べさせてくれたよね。」もう何十年前になるのか。「おじいちゃんが最後に僕に教えてくれたんだよ。本当に最後の最後に。」会長にも確信があったとは思えない。当時の様子や最近になって得た情報、会長は死後も人脈に明るかったから─────真実を手中に収めることが出来たのだろう。それでも僕に言い遺すかどうか散々迷ったはずだ。どう悪し様に言おうが実の息子には違いないのだから。
君と美月を轢き逃げした犯人が分かった。そいつは学生時代の後輩で社会人となった後は雲上の存在だった。僕自身は学生時代の事なんて忘れて会社の上司と部下でしかなかったのだけど、アイツはそうじゃなかった。思い返せばそれと見受けられる節もあったのかも知れない…。アイツは若い頃、僕に恋愛感情を持っていたようなんだ。自分は妻子を持って家庭を築くという選択はできないでいたから、僕と君が結婚して美月を授かり幸せになるのが妬ましかったんだと思う。─────いや、本人が話さなかったら誰にも知られなかったことだ。
「あなた、まさか…。」妻の五月は賢い女性だ。真相にたどり着くのも早かった。「うん。アイツを殺して屋上からぶら下げたのは僕だ。」五月の顔がみるみる青ざめていく。「僕はどうしても許せなかったんだ。君と美月の葬儀の日にアイツが僕に何を言ったか…。力になれることがあれば何時でも頼ってくれ、と。その手で僕の最愛の二人を奪っておきながら─────!!!!!」
ビシッ!!壁か硝子に亀裂が入ったかのような音が鳴った。目には見えない衝撃が走ったせいなのだろうか、テレビの電源が徐についた。
…以上●●警察署の前から中継でした。かなり強い怨恨の疑いがありそうですね。動機の解明が待たれますが、容疑者とされる男性は車ごと海に転落して既に遺体で発見されています。この二人がどのような関係だったのか周囲に尋ねても誰も見当がつかないというのが不気味です。同じ大学を卒業したと判明していますが学年はかなり違いますし、社内においても特に親しい様子はなかったと証言がなされています。容疑者が勤めていた会社では数ヶ月前に別の男性が投身自殺をしているとのことで、“呪われた商社ビル”なんてインターネットでは拡散されているそうです。まったくもって不謹慎な…
「─────僕は君達と同じ所に行けなくなった。」満月に手を伸ばしたあの日に死んでいたら、この手を汚すこともなかっただろうに…。「あなた…。逃げるわよ。」「そう、逃げ…えっ!?」五月は真顔だ。「ボンヤリしてる場合じゃないでしょう?追っ手がかかる前にサッサとここから逃げないと!!」「!?」「パパのろまねぇ。」美月はママの真似が上手だった。「20年よ!20年も私達は離れ離れにされていたのよ!!」「ずっとパパに会いたかった。」「死んじゃったものはどうしようもないわ。騒いだって生き返れるわけじゃないし。だからってまたあなたと引き離されるなんて嫌よ!!」「嫌よ!パパ!!」「だけど…君…」
「「だってもヘチマもないの!!」」 …思い出した…のんびり屋の僕をグイグイ引っ張っていく勝ち気な妻のことを。僕の最愛の人は家族のためなら閻魔様とだって喧嘩することを厭わないだろう。美月はママに生き写しだし多数決にしても勝ち目なんてあるわけが無い。─────僕も腹を括った、幽霊一家の逃避行といこうじゃないか!!
…2週間もの間、そのまま放置されるとどうなると思います?屋外ならまず烏などに●●も啄まれているだろうし蝿などの虫による損壊も激しかったと想像がつきますね。 ああごめんなさいね、ついね。容疑者の●●部長はその点周到な人物で、遺体を防水シートで拵えた袋で包んで防災用の頑丈なロープで脇も腰も括ったんですよ。なぜかって?首がもげても地上に墜ちないでしょ?強(したた)かだよね。あああっ!!ごめんなさい、テレビだって忘れてた!!いったんCMです。
出版社: 新潮社 出版社シリーズ: ISBN: 4101240299 (9784101240299) サイズ: 文庫 発売年月日: 2015年8月1日
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