部長さんと珈琲
缶コーヒーに拘りは特に無い。この時期ならば熱々のノンシュガーならそれで構わないんだ。4階フロアに設置してある自動販売機コーナーで若干迷った挙げ句に結局いつものブラックを買う。
「中身が減ってもお値段据え置き~。」
歌わずにいられようかってんだ。
上に参ります。
心臓が喉元まで飛び上がってきた気がした。恐る恐る振り向けばエレベーターがポッカリと扉を開いて誰かが乗り込むのを待っている。中からヒョコッと顔を出したのは先日の新入り君だった。
「部長、お忙しいところ申し訳ありませんが上までお付き合い頂けませんか。」
「上って…。」
新入り君が乗っているエレベーターは役員フロア直通のエレベーターだ。
「会長がお待ちになられております。」
断れるわけがなかった。
「おう、来たか。おせえぞ。」
「申し訳ありません。」
新入り君に案内された会長室には10人ばかりが集まっていた。
「じゃあ頼むぞ。」
「…え?」鳩が豆鉄砲をくらっ
「人数分な。」
「あ、はい。」
窓から見える、そう遠くない海を行き交う船舶が色とりどりの宝石のような灯りを放っていた。皆思い思いに寛いで部屋に満ちた芳しい珈琲の香りを楽しみながら会話に花を咲かせている。
「俺がまだ現役だった頃にコイツが入社して来てな、右も左もわからねえだろうから取り敢えず美味い珈琲の淹れ方を教え込んだんだよ。」
「会長は無二の珈琲好きでいらしたから、秘書課でも豆挽きから焙煎まで研鑽に研鑽を重ねて珈琲検定を合格した者だけを採用しておりましたものね。」
「良い1日と言うのはな、朝の珈琲から始まって寝る前の珈琲で終わるんだよ。」それは飲み過…
「出来たか!!」
「あ、はい。」
各々が珈琲で満たされたカップを手に取り薫り立つ湯気を吸い込んだり、深淵の如く沈む黒面を傾けたりして愛でる様子を見ていると、彼等がこの世の住人ではなくなっていることを暫し忘れさせる。
「美味いなぁ。」会長が満足そうに目を閉じて頷く。
「お前に珈琲を淹れて貰えるのもこれで終いかと思うと寂しくなる。」
「……………。」
「悔いの残る死に方をした奴は本人が1番嫌な場所から離れられんなんてなぁ、閻魔様も底意地の悪いことをしやがる。」閻魔様の風評ひが
「だけどな!!」はい。
「だけど漸く年季が明けたらしくてな、ここから次の所に行くことになったよ。」
「会長…。」
「お前が此方に片足を突っ込んだ話は聞いていたが、生きている者と積極的にコンタクトを取るのは難しくてな。警備の若いのに近況を尋ねるくらいしか出来やしねえ。」
最後にどうしても挨拶がしたくてなってなと呵呵大笑する姿を見て思いもよらず目頭が熱くなった。執務室で愛人に刺されて死んだなんて嘘か真実か突拍子もない噂が当時の社内を飛び交っていたものだが破天荒な会長のことだ、絶対に刺されていると確信した。
「じゃあな、お前はまだまだ此方に来るなよ。」
別れ際にそう言葉をかけてくれる。不器用な優しさは昔と少しも変わらない。
「俺の馬鹿息子に愛想が尽きたらサッサと辞めても構わんぞ。あいつは寝小便たれてた頃とちっとも変わっとらん。」
社長が聞いたら目を三角にして怒鳴るようなことをサラッと言うからヒヤヒヤする。それも最後だと思えば感慨深く、襟を正して一礼をしてから賑やかな会長室から退室した。
オフィスに戻る途中、ポケットの中ですっかり冷めてしまった缶コーヒーを手に取りながら思案する。誰があの珈琲カップを片付けるのだろうかと。
出版社: 新潮社 出版社シリーズ: ISBN: 4101240299 (9784101240299) サイズ: 文庫 発売年月日: 2015年8月1日
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